2018年10月15日

こうして親戚づき合いは次第に薄まっていく

都会でひとり自由きままに暮らす身にとって、田舎で親戚一同が集まる場に顔を出すのは苦手だ。

慶弔問わず、まずいろいろと聞かれる。

おめでたい席では、なぜまだ一人なんだ、誰か良い人はいないのかと言われ、葬儀の席ではいつまで両親だけにしておくのか、なぜ帰って来ないのかと言われ

「今日は天気がいいよね」程度の軽さで口にしてるんだろうけど、言われた方としてはいちいちそれに答えるのが面倒で煩わしい。

本気で私のことを心配なんてしてないのに、何でそういうこと言うのかね?

母の兄弟たちは一見協調しているようでそうでもない(どこもそんなもんだと思うが)、

大して種類もない供物の中から選ぶ作業が進まない、金額であったり、見映えであったり、やっと決まりかけると、それはおかしいだろう、とご意見番的な兄弟が突っ込んでご破算になる。

決まっても今度はそれを置く場所でまたモメる。兄弟の中でも力関係があり、それはイコール経済力でもある。ウダウダと決めかねている会話の端々から親戚たちの家庭の事情がだんだんわかってくる。

そんな話はどーでもいいから早く決めてーーーと口には出せないが、心の中で叫ぶ

こういう場をほとんど踏んだことのない、経験値の少ない私が間違っているんだろうけど、叔父の家族も私たちも物理的、精神的に負担がもっと軽くなりようなやり方は無いものだろうかといつも思う。

子供の頃はイトコたちと遊んだこともあるが、大人になってからのつき合いはほとんど無い。東京と田舎という距離もあるが、未婚、子なしの私と違ってみんな家庭があるから、まずそこからして生活感、話題が違うから共通項がない。

こういう場で初めてイトコの子供たちに会い、名前を知ることになる。

どちらかと言えば、母たち兄弟はお互い気を遣ってつき合っているほうだと思う。事を荒立てず穏やかな関係を保とうとしているというか。

盆暮れには必ず兄弟同士の家を行き来して挨拶をしている。何かをもらったら、同等の物を返したり包んだり。

家といっても隣同士ではなく距離があるから、最近は年齢的にも億劫になるのか、親戚の家へ挨拶に行くと帰り際にもう行ったことにしてこれを持ってってくれみたいな相殺というかその場でチャラみたいなことにもなっている(笑)

多くても少なくてもいけない、同等の物々交換みたいな、こういう形式的なつき合いって意味があるんだろうか?と思えてならない。

でも、娘である私が近くにいないため何かあれば、母は兄弟に頼らざるをえない。

実際母が具合が悪くなった時に駆けつけてくれたのはイトコだったし、病院へも何度か連れて行ってもらったし、そういう恩を忘れているわけではないけど、つい煩わしく感じてしまう。。。

親戚づき合いの濃い、薄いは家々によってそれぞれだと思う。血縁だけで言えば薄くても濃い付き合いをしている家もあるだろうし、たとえ兄弟でも一切つき合いがないような家もあると思う。

そういう点では、ウチは平均的なところだとは思うが、母方の親戚づき合いはあっても、父方の親戚づき合いはほとんど無いといって良い。それでも盆暮れにはお互いの家へ挨拶に行くという形式的なことをやっていたが、

最近その家のお嫁さんから、今後こういうつき合いはやめましょう、こちらも行きませんし、来て頂かなくてもいいです、という電話があったらしい。なかなか言い出せることではないが、私はそれで良いと思った。

距離は近いけど私はその家には一度も上がったことがないし、たぶんお嫁さんとその辺ですれ違っても気がつかないくらいの超薄いつき合いなのだ、血は薄くはないけど。仲が悪いとかではなく、やっぱり母親の実家へ行くほうが多かったからだと思う。

とりあえず形式的なつき合いを続けていくという選択もあるが、やめましょうという選択もあって良いと思う。

もし私がこのまま東京に住み続ければ、親戚づき合いはさらに薄まっていく。イトコの子供たちの名前も知らない関係ではそうなっていくのも当然で、それでいいと思っている

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タグ:親戚 葬式 法事
posted by ふ〜みん at 22:34 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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