2013年08月18日

忍者月輪、蕨手参上


里で数日を過ごした伝兵衛たちは、年末には京都に戻って来ました。

2.JPG

この挿絵はたぶん「安土城」です。

天正九年(1581)元旦、信長は四十八歳の春を迎えた、とあるので、

1582年6月の「本能寺の変」まであと1年半ということになります。

伝兵衛たちも所司代の屋敷で穏やかな正月を迎えていました。

信長に対抗する中心勢力であった東本願寺はすでに消滅し(ここでも伝兵衛は活躍したのですが書かずにスルーしてしまいました)

越後の強豪上杉謙信は1578年にこの世を去り、小田原の北条氏政とは家康のなかだちにより友好を保ち、武田勝頼の動きに眼をはなせないが、強く不安を抱くほどの相手ではなく、信長の天下統一への道は坦々とひらけていました。

伝兵衛たちが屋敷から長屋に戻った時、蕨手が神通力で話しかけてきました。

「明晩には、所司代の屋敷に到着する予定、
武田勝頼が約八千の兵を動かし、高天神城に後援に出るという噂があるので油断しないように」と

蕨手の情報に伝兵衛が

「あいわかって候、まことにかたじけなし」と返答すると、

『脳裏に蕨手の顔が笑みをうかべ、消えた』とあります、それがこの挿絵のようです、

1.JPG

超能力すごいですねえ(笑)

黄色くキラキラしているのは、伝兵衛と交信しているイメーイジ?それとも笑顔だから?(笑)

伝兵衛が若侍風なのに対し、蕨手の風貌はワイルドで男前な感じで気に入っています。

若かりし頃の、藤竜也さんに似ていると思いませんか?


伝兵衛は蕨手の情報を早速村井に伝え、聞いた村井はすぐに信長の元に使番を走らせます。

早馬で出向いた使番はその夜遅く所司代に帰着、

伝兵衛が呼ばれ、書院に出向くと、村井が笑顔で迎え、信長が書状を見た後、すぐさま信忠(信長の長男)に兵をもよおして清洲城に入るよう指図、村井は(伝兵衛のおかげで)顔が立ったとよろこんでいるようです。


村井は、蕨手たちが到着したら時間を問わず、すぐに呼べ、と伝えます。

期待のほどがわかりますね。

そして、翌日の夕方、蕨手と五人の仲間が到着しました。

6.JPG

音も無く、さ〜っと滑り込むように、闇に隠れ、伝兵衛の案内で書院に向かいます。

5.JPG

平伏する蕨手たち、そこに村井があらわれいよいよ面接です。

「蕨手よ、そのほうどもは甲斐の三ツ者でやな」

「さようにござりまする」

「さてこのたびは主家を捨て、わしの手先となりてはたらくのかや」

「お許しをいただけるならば、われら六人をお殿さまの塵払いとしてお召し抱え下されませ」

「武田に不忠をなすのも嫌わぬかのん」

「われらは三ツ者なれば、主が愚かにて仕うる値打ちなしと見たるときは、すみやかにそのもとを去りまする。
奉公いたすうちに不忠をはたらかねば、忍びの道をはずれませぬ」

貞勝はうなずく。

「それも一理あろうでやか。武田譜代にてはなく、忍法によって仕うるなれば、勝頼のもとにとどまるも去るもわが存念しだいとなるなん。
よからあず。そのほうどもを召し抱えてつかわすだで。この先は伝兵衛の手下としてはたらくべし。せいぜい精進して手柄をたてるよう心がけよ」

「まことにありがたきお言葉、われら命懸けを賭けてご用を足しまする」

面接合格です!!

伝兵衛から蕨手たちのことを聞いた時から、村井の気持ちはほぼ決まっていたんでしょうね、

実際に蕨手たちと会って、伝兵衛が紹介するだけのことはある、と納得できたのでしょう。


「蕨手」って調べてみると、ちゃんと意味があるんですね、

「若葉がまだ開かず先がこぶしのように巻いている早蕨」とあります。

まさに、ワラビが山菜として美味しい時の状態じゃありませんか(笑)

そして、

お神輿の屋根の先端が、くるん、となっているのも蕨手と言うらしいです。

やっぱり蕨手はタダ者ではないから、そういう名前をもらったのかもしれませんね。




posted by ふ〜みん at 09:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読売連載「忍者月輪」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする



×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。